Day167 ソロモンの大岡裁き
2017.3.28 167日めです。
全体的な読了率46%です。
もうすぐ半分!
10また、あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。
(テサロニケ人への手紙2 第三章10節)
働かざる者食うべからずってパウロの言葉だったの!
おそらく、パウロは信者にタカって生活してるみたいな陰口があったんでしょうね。断固として信徒に生活費を負担してもらっていないというのを書き記しています。
また、
17ここでパウロ自身が、手ずからあいさつを書く。これは、わたしのどの手紙にも書く印である。わたしは、このように書く。 18どうか、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。
(テサロニケ人への手紙2 第三章)
これは、多分、パウロが人気すぎて、偽物のパウロからの手紙がはびこってたということでしょう。かなりセンセーショナルにパウロが流行ってたのが想像できて面白い部分だと思いました。
2千年ちかい時を経て私もパウロのファンですからね。色々勘ぐりたくなる気持ちも分かるし、直筆の手紙が欲しいのもよくわかります。ステキだもの。
そして旧約の方も面白かった。
まず、ダビデの息子がソロモンだというのを知りませんでした。
血がつながっているのは予想してましたが、5代くらいは離れてるかなーと漠然と思っていたのですよ。
そして、ソロモンがいかに優れた頭脳の持ち主化というエピソードが「子裁き」
二人の女性が一人の赤ちゃんを自分の子だといって取り合うあれです。
24そこで王は「刀を持ってきなさい」と言ったので、刀を王の前に持ってきた。 25王は言った、「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ」。 26すると生きている子の母である女は、その子のために心がやけるようになって、王に言った、「ああ、わが主よ、生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください」。しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。 27すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ」。 28イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。
(列王記上 3章)
せ、せつだん!!!
日本人なら誰でも知ってる「大岡裁き」と同じエピソードですね。
中国の古書『棠陰比事』にも同じような話があるそうで、この話ははるばるシルクロードの人の口を渡ってきたのですかね。
大岡裁きの他の話しをあまり知らなくても、「子裁き」は結構たくさんの人が知ってると思います。母の真の愛と、本当に面白い話は、国籍、時代を問わないということでしょうか。
Day164 フランス語で聖書が読みたい?なら読めばいいじゃない!
2017.3.25 164日めです。
聖書読むの習慣になりつつあります。
たまに聖書アプリを開いていない日があるとちょっと気持ち悪い感じがする。
以前、日本語以外でも聖書を読んでみたいとこのブログに書きましたが、
biblechallenge30.hatenadiary.jp
じゃあ今からでも読んでみたらいいんだよね。
↑結果。
マーカーしたのが分からない単語。茶色のマーカーは今日調べた単語。
そして今日は疲れ果ててここまでで終了。
やばい。これいつまで経ったら読み終わるのよ。
いやーでもね。非常に勉強になりましたよ。こうなったら意地で。読む。
Day163 「キリスト教は信じうるか」読了
2017.3.24 163日目です。
達成表よく見たら、詩篇の半分を読んでいました。
全体的な達成率も44%で、半分に近づきつつあります。
がんばるぞ!
信仰のない私において、神をどう考えたらよいのか、とても腑に落ちる内容でした。
難しいことを言っているようですが、身近な事象から噛み砕いて説明してくれるので、ゆっくり読めば内容の理解は私にもできました。
自分の中で、もしも神様というものが居るなら、それは私が見ようとしていないだけだ。となんとなく思っていました。
最初は小学生の時に幽霊の話になったのがきっかけです。
きっと幽霊は「姿を見せる」のではなくて、「普段からその辺にいるのだけど、私が見ようとしないから見えない」のだろうと、突然ひらめいたのです。
ノートを取るのに集中していると、同じ机の上にある消しゴムにまったく気づかない(みえないと感じている)のと同じように、集中力のピントが合っていないから幽霊は普段見えない。
この考えはそれ以降ずっと私の中にあって、自分の把握している現実とは「自分のフィルターが濾し取っている虚構」だという感覚がありました。
そこで神様の話に戻るのですが、「神様は語りかけている」とキリスト者の方々はおっしゃいます。多分それは本当で、でも私にそれをキャッチする姿勢がないから声が一方通行になって私に届かない。私の把握している現実はその声をキャッチしない。
電波塔が常にラジオの電波を発信していても、ラジオを持っていないと音声は聞けません。ラジオを持っていても、周波数が合っていないとやはり音声は聞けません。きっとそういうことなんだろうと思いました。
目に見えず触れないものでも存在はしますね。電波だって空気だってそうなんだから。だから目に見えないから、声が聞こえたことがないから、幽霊や神様が居ないということにはならないと思います。
そういった考えが私の中で不定形のものとして渦巻いていて、そのうえでこの本を読んだことで、キリスト教への理解が少し進んだように思いました。
仏教の「空」というのは、物事すべてを司る何か、今はまだ解明されていない全てを解明する鍵「X」だと聞いたことがあります。だとすると、「空」はキリスト教の神にかなり近いのではないか。と思いました。
文中の「ロゴスとは無である」という説明も非常に私にとってわかりやすいものでした。ちょっと前に書いた、天地創造の無は「全てのものが存在する無」だという私の感覚と通じるように思いました。
この考え方はキリスト教信者のスタンダートかどうかはわかりません。でも、キリスト教文化の外で約30年生きてきた私にとって、私の理解の範囲内で神を説明してくれる書物でした。
Day161 : 民の数を数えたダビデ
2017.3.22 161日めです。
サムエル記下読了しました。
聖書の通読って、大きな一つの目標ですが、
聖書は色々な短いタイトルが沢山集まってできているので、
1冊読み終わるごとに細かく達成感が得られていいですね。
これが、私が聖書通読を続けられる理由かもしれません。
まだ半分も読んでいないので読破できるかはまだわかりませんが。。。
サムエル記の最後、ダビデはいきなり民の数を数えるように部下に命令し、ヨアブ(最高の側近だと思います)が忠言したのもむなしく、「民数」が決行され、そして神から罰が与えられます。
んー?なんかその話前に聞いたことある!
これだ!ババーン!
biblechallenge30.hatenadiary.jp
100日前に、コメント欄で人口調査について教えていただいていました。
なるほど。100日の時間を経て、コメントでご説明頂いた内容がより分かるような気がします。
でもダビデは我に返った時、すぐに神様に自分の間違いを告白してますね。
10しかしダビデは民を数えた後、心に責められた。そこでダビデは主に言った、「わたしはこれをおこなって大きな罪を犯しました。しかし主よ、今どうぞしもべの罪を取り去ってください。わたしはひじょうに愚かなことをいたしました」。
非常にワンマンで、厳格な上司に、カッとなってミスをしたと報告する。
想像するだけで胃が鉛のようになります。
その上司が、自分の命、世界中の全てを掌の中に握っているとしたら。ウワー。正直にこうやって謝れるのってすごいと思いました。
謝らなかったらもっとひどいことになるだろうしな。いやー。考えただけで怖い。
恐ろしい人にほど、ミスの報告は迅速にすべし。ですね。
Day160 :ダン・ブラウン「天使と悪魔」と天地創造
2017.3.21 160日めです。
もう花粉症がひどくて。室内外を問わずマスク必携であります。
三連休は遊びに行ってしまってちょっとさぼってしまいました。
じわじわ巻き返してがんばろうと思います。
娯楽小説から得る問い
アマゾンにちょっとめずらしいサービスがあったのでお試ししています。
「オーディブル」という、本の朗読データが聞けるサービスです。落語なんかもあって気になります。皿洗いとか大嫌いなんですが、こういうのを聞きながらやれば時間が無駄になっている気がしないので皿洗いも頑張れそうです。
目玉として、「ダ・ヴィンチ・コード」シリーズの音声データがサービスになっていたので、「ダ・ヴィンチ・コード」の一つ前の話「天使と悪魔」を聞き始めています。上中下の3巻構成なので道のりはながそうですが。
無から天地創造がされた?
初めの方に、聖書では「無から世界が創造された」と書かれているが、科学はそれと真っ向から対立しているという話が出てきます。ID論ってやつでしょうか。
私はそれを聞いて違和感がありました。というのも、私の中では、聖書での天地創造というのは、「全ての要素がある状態から」天と地が「分けられた」という意味だと思っていたのです。
なんでかわからないけど、私は、全ての要素、水素とか酸素とかそういった要素だけで実態の伴っていないモヤモヤーとしたものを神様があれとコレに分けていったと言葉で説明するとそういう感じが近いかな?そういうイメージがありました。
濃縮された雲みたいな?
コレを上と下にわけて、上の中でも右と左に分けて、そういう感じかな~と思っていたのです。
光の三原色のような天地創造観
光って、光の三原色赤、緑、青が合わさると白になりますよね。
白がまずあって、神様はそれを赤とか青とかに分けて、さらに紫、ピンク、水色…そういうふうに分けていった。そう感じていました。
イメージの中ではもっと雲みたいな。万物が「気化」して灰色の雲になった感じです。そのすべてのエキスがフラフラしているのを神様が秩序付けた。というかんじかな?
ギリシャ神話の世界の始まり
当然そういうものだと思いこんでいたのですが、なんでそう思い込んでいたのか改めて考えてみると、これは多分ギリシャ神話が頭の隅にあったようです。
ギリシャ神話の世界の始まりは「混沌」。そこから大地の女神、闇の神様が出てきて次々と色々なものを司る神様が生まれてきます。
私は多分こっちを先に知っていたので、このイメージに引きずられていたのでしょう。
ここから古代ギリシャ哲学について小一時間調べ物をしていたのですが、ステキなワンダーが広がっていて私の頭ではちょっとすぐに理解しきれない。
多分古代ギリシャ哲学の「万物の根源は何か」という問いと、ギリシャ神話、聖書の天地創造は少なからず関係があるのだろうと考えています。
この考え、キリスト教的には変ですか?正当ではないのでしょうか。
Day156:Stパトリックデイ 謎のザリガニ紋
2017.3.17 156日目です。
読了章数が500章を突破しました!
思えば遠くまできたものだわー。
ここまで軌道に乗れば、通読を達成しそうな気がするのですが、
まだまだ43%。半分以上残っているので気を抜かないでがんばります。
引き続き八木誠一著「キリスト教は信じうるか」を読んでいます。
私にとってはもはや哲学の問題に近い内容になってきたのですが、
宗教には哲学が含まれているものですよね。
磁石の上にボール紙を置き、その上に砂鉄をまいて、軽く叩くと、そこには磁場の働きを示す一定の模様ーー構造ーーがあらわれる。もし砂鉄に意識があったら、砂鉄には磁石が見えないので、きっと「個々の砂鉄にうまれつき内在する性質によって、他の砂鉄と関係し合うのだ」と思うであろう。しかし実はそうではない。磁石をどければ、砂鉄同士の関係も、構造も消滅してしまう。関係と構造の根拠は、砂鉄に内在しているのではなく、実は磁場だったのである。(P97)
このたとえ気に入りました。
著者はこのたとえの磁場の部分がロゴスだと言っていて、私はロゴスの方をよく分かっていないのでそこはなんとも言えません。
なんとなくだけど、この感じも私は昔から考えていたことです。
なんとなくこの感じを理解できるということは、私はキリスト教の感覚が多少あるということでしょうか?
また、今日はセント・パトリックデイらしいですね。
Googleのトップにそう書いてありました。
「聖パトリックの日が穏やかになれば、ざりがには穴から出てくる」
ということわざがあると、ものの本に書いてあった記憶があります。
このことわざが妙に気になって、少し調べてみたことがあるんですが、
まずザリガニって冬眠するんですね。
要するに「ザリガニは穴から出てくる」=春の訪れ ということですね。
ど、どういうことなの。。。?
なぜ、ゆりの紋章に見立てたザリガニの紋章があるのでしょうか。。。
ザリガニってなにか特別なシンボルなのでしょうか。
上記のことわざから、聖パトリックとザリガニの関係はわかったけど。
それとも、冗談でザリガニをゆりの形にしてるのか?
分かる方、いらっしゃいますか?
Day154:八木誠一氏に深く感銘を受ける
2017.3.15 154日めです。
個人的な感想としては、聖書の舞台になった場所の景観を実際に訪れた著書が詳しく記述しているので情景が浮かびやすい。
書いているうちにキリスト教信者としての血が騒ぐのか、熱くなってくるのだがそうなると信心のない私はついていけなくなってしまう。
ユダヤ教、ヘブル思想では言葉すなわち魂であり肉であるなど、ユダヤ教の基本的な考え方を説明してくれた箇所も分かりやすく非常に勉強になりました。
次に、一緒に借りてきた(私は聖書の勉強において、無料のものや図書館のものを利用しているのでまだお金をかけて聖書を学んではいません。世の中すごい。)
これが、すごい。
私がすごい。なんて言うのも憚られるお方なんでしょうが、タイトルに惹かれて何気なく借りだしたのですが、大変に面白い内容です。
彼の父は内村鑑三のお弟子さんということで、日本の戦後クリスチャンは内村鑑三氏の影響が色濃いのでしょうか。
クリスチャンホームに生まれ聖書について勉学を勧めていく中での懊悩について書かれているのですが、
まず、出だしがすごい。
悪いと知って行う悪だけが悪なのではない。善かれと願う真面目で熱心な努力が思わぬ悪を生み出すことも実にしばしばある。(p12)
これね。これ。私の中にある命題でした。
「僕は今まで木は木だと思っていた。なんという間違いだったろう」(p48)
真面目にキリスト教に向き合い悩む中で、禅の思想にそのヒントを見つけ、こういった事態になるわけですが、これは、私も、そう、思ってたんだよー!と思わず叫び出しそうになりました。
これについての詳しい説明は本を読んでいただくのが一番だと思うのですが、
②自分の中で金閣寺への期待がふくらむ
③ついに本物を見たときに、本物が自分のなかの金閣寺よりも美しくなくてがっかり
この感じ?
これをイエス・キリストにも当てはめて、キリストその人よりも言葉が先にたって、その人自身をみていない状態は問題なんじゃないかとそういうふうにいってると理解しました。
書き文字をきれいにしようと思って、そういった本を購入したことがあるんですが、まず驚いたのが、お手本の「あ」と自分の頭のなかにあった「あ」の形がかけ離れていることだったんですよ。もう全体のバランスがまったく思っていたのと違って、10回書いてやっとお手本ににせることが出来たような体たらくでした。自分の中の「あ」の形は、30年生きてきて標準からだんだんずれていたんですね。毎日「あ」を見ているのに思い込みによってそれに気が付かなかった。
人間はそうやって思い込みにまみれて生きてるんですよね。
私にとって読み応えのある内容なので、まだ60ページほどしか進んでいませんが、既にとても影響を受けています。
八木氏は今も教鞭をとっておられるようですが、
横浜遠いなー。授業料より交通費のほうが高くなってしまう。
ぜひ直接お話聞いてみたいです。
まずは頑張って「キリスト教は信じうるか」を読み切ります。
そんなことを考えて今日の聖書を読んでいたら。
16盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿を指して誓うなら、そのままで良いが、神殿の黄金を指して誓うなら、果たす責任がある』と。 17愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。 18また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。 19盲目な人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。 20祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。 21神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。 22また、天をさして誓う者は、神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。(マタイによる福音書 23章)
既に、見ているようで見えていない「盲目の人」がそれによってこんがらがって全然違う方向にルールを決めたりとかしてたんですね。
また自分の考えとマッチした内容でドキッとしました。
私なんかも見ててくださる神様なら、きちんと信心されてる方は大変な加護を受けているんでしょうね。