Day:195 ソロモン≠ダイヤ ソロモン=知恵
2017.4.26 195日めです。
箴言、ローマの信徒への手紙読み終わりました。
"マッサの人ヤケの子アグルの言葉。その人はイテエルに向かって言った、すなわちイテエルと、ウカルとに向かって言った、"
箴言 30:1
"マッサの王レムエルの言葉、すなわちその母が彼に教えたものである。"
箴言 31:1
あれ?箴言ってソロモンの残した格言だけじゃないんですね。
箴言 1:1
この宣言とともに始まるので、てっきり全てソロモンのいい話集なんだと思ってました。
ちょっと調べたのですが(wikipediaでごめんなさい)
これは、律法に関する五書がモーセの名で呼ばれているように、知恵文学(箴言、コヘレトの言葉、雅歌)はソロモンの名で呼ばれるからである。
ということらしいですね。
旧約聖書には、律法一番のモーセと知恵一番のソロモンの二大巨頭が居て、知恵の範囲に置いては、ソロモンと称される。ということなんですね。
聖書を読むまで、ソロモンという名前のイメージは、大きなダイヤの指輪だったんですよね。なんででしょう。ダイヤも指輪も出てきてないですよね。
今まで読んだ範囲だと、たしかにソロモンの時代は繁栄を極めた豊かな時代のような印象をうけます。大規模な宮殿建設があったり。でも、箴言を読む限り、ソロモン自身が贅沢をしていた感じは受けませんよね。
Day190: ついに半分
2017.4.20 190日めです。
ついに全体の半分を読みました。
聖書っておもったよりも分量が多いんですね(笑)
ついに折り返し地点、後半戦も頑張ります。
だんだん、紙の聖書も欲しくなってきました。アプリで読んでると、周りの人にはゲームやってるのか聖書読んでるのか見分けつかないじゃないですか。私はいいことしてるのよってアピールしたくなるんですよね。そう思った時にこの言葉を思い出しました。
"自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。"
マタイによる福音書 6:1
ですよねー。
そんな不純に聖書見せびらかしちゃいけないですよねー。
"むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。"
箴言 13:24
"野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる。"
箴言 15:17
箴言(”しんげん”って読むんですね。”ぞうごん”かと思ってた)はすごくおもしろい。今でも心にしみてためになる話がいっぱいなんですけど、
上の2つは、私から見たらこれをとんでもなく誤解して変な方向に走ってる人がいるという意味でもとても興味深い部分でした。
一応あの人らは聖書の通りに生活してるつもりなんですね。
またひとつキリスト教文化のバックグラウンドを知りました。
Day188 ただいま
2017.4.18 188日めです。
10日以上も聖書読んでいませんでした。
特に理由もないのですが、精神的に沈殿してた。
もともと調子の良くない時に変にプレッシャーがかかったのねきっと。
元気になってきたので聖書読みを再開できました。
色んなキリスト教の解説本を読んでいるうちに、英語速習指南本とか、筋トレメソッドの本とかを読んでる気分になったんですよね。
要するに、宗教も頭じゃなくって身体で覚える部分があるんだろうと感じたわけです。指南本読んでる時間で英単語暗記したほうがよくない?そういう筋トレ的に学んでいく部分も存在するのだろうなとぼんやり悟ったわけです。
私は祈りを知らないし、本当にやりかたの検討もつかないし。教会で使う聖書を全部読破しようというのは筋トレ的実践に入るのかもしれません。教会に行くのも考えたのですが、家族にそれを匂わせたら無茶苦茶心配されました。
当初の目標、小説や映画に出てくるキリスト教文化の理解 という点では、そういう実践的な部分は知らなくて良いのかな?私は入信するつもりはまだありませんが、キリスト教について真面目に理解したいと思っています。実際に教会に足を運んだり、祈りというものを知るというのは私にとっての高いハードルのように思えます。
Day173 空が青いのはなんでだ
2017.4.3 173日めです。
新年度ですね。今年度もよろしくお願いいたします。
最近何度か、イエス・キリストの「人であり神である」という事が私にとって難しいという話しをこちらでしていますが、図書館に行って、「岩波 キリスト教辞典」をめくってきました。
初めて、閲覧室というところに入ったのですが、手荷物を預け、指定の区切られた机を与えられてゆっくりと調べ物の出来る良いところでした。
「カルケドン公会議」を調べてみましたが、はっきりいってわからなかった。
そして今読んでいる来住 英俊著『「ふしぎなキリスト教」と対話する』の序文にはこのように書かれていました。
えらく荘重な書き方ですが、結局は、「神である」と「人である」の関係はわからないと言っているのです。(P57)
「イエスは神であり、ひとである」というパラドックスは、教会の初期には大問題でしたが、いちおうの決着をみてからは、それほど人間たちを悩ませません。結局はイエスの事情です。
なにか、コレを読んで信者の気持ちがどの当たりにあるのか、なんとなくわかりました。要は「空が青いのはなんで?」「太陽が燃えているのはなんで?」というのは、素朴ですが文系の私にはなかなか正確に応えられる内容のものではありません。でも、現実として空は青く、太陽は燃えている。最近ちょっと燃えてないみたいですけど太陽。
「神であり人である」っていうのは空が青いのと一緒なのかもしれません。
一応、今の自分なりに導き出した答はこうです。
岡本太郎は、芸術家というのは職業ではなくて生き方だと言っていました。空が青いのを自分がどう受け止めるのか、それ自体が芸術家というものだと。
そういう芸術家として、世界に名を残す岡本太郎その人自体が、同時に日本の岡本家の息子さんである。そこに矛盾はないわけです。
大統領だってどこかの子どもだし、誰かのお父さん。これは職業なのでなんともいえませんが。
二元論、二性論という言葉もあり、それも「受肉したキリストには人間と神の2つのペルソナが存在した」と書いてありました。
ひきつづき調べてみたいと思います。
あと、「岩波 キリスト教辞典」をパラパラめくってわかったことが。
この辞典とっても面白いです。私みたいにキリスト教の文化を知らない人には雑学書のようにも読めます。
マンディリオン 聖顔布
キリストが布に顔を押し当てて、その布を人に送ったそうです。送られた人は、キリストのお顔が写っているのをみて癒やされたという逸話があるそうです。
これ、映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」にそのシーンがありました。
最後の最後、3:50くらい。
曲は1:05くらいから始まります。ステキな曲なのでお時間のある人はぜひ。
タオルを受け取った少年は敬虔なクリスチャンという設定なので、これは慰めというか、聖書的な愛の表現だったのでしょう。自分をカリスマとしてついてこいって意味だわね。曲もロトの塩の柱の事を言ってたりして、聖書的な曲なんだと思います。
ずっと変なシーンだなーと思ってたんですよ。
聖書を勉強すると分かることがいっぱいあっていいですね。
Day170 こんな難しいことを信じているクリスチャンはすごい
昨日、キリストをどう解釈しているのか、その基本的なところすら分からないという話しをしました。
biblechallenge30.hatenadiary.jp
その後、有名な「ふしぎなキリスト教」を読んだのですが、やはりまさにその部分があったので、自分なりに表にしてみました。
「神の子」とはどういう意味かというと、親と分離している。イエスはイエスで完結した存在。独立の人格なわけですよ。けれど、この完結した人間存在が百パーセント、神の意思と合致している。(P169)
要するにアニメ「エヴァンゲリオン」の、エヴァとシンジくんの関係の感じですか?
シンジ君の乗る巨大なロボットにみえるものは生物で、生きています。
その中にシンジ君が乗るんだけど、どうやって操縦するかって言うとシンクロする。精神、神経が繋がる。これはできる人とできない人が居て、シンジ君は言うなれば、出来る血筋なんですね。
シンクロ率が高くないと、エヴァは思うように動かない。
エヴァンゲリオンはアニメ見てただけなので、エヴァの解釈が違っているかもしれませんが。
ちなみに、「ふしぎなキリスト教」は話題になった当時に購入しており、全体の3/4を占めるごんぶとの帯に「新書大正2012第一位!!」と大きく書かれています。買ってすぐ読みましたが分かった気になってその後内容をすっぽり忘れてます。
そして図書館から来住秀俊著「『ふしぎなキリスト教』と対話する」を借りてきました。うちの方はネットで注文すると近くまで運んできてくれるのです。合わせてこれから読む予定です。
Day169 イエスの立ち位置が分からない
2017.3.30 169日目です。
「ダ・ヴィンチ・コード」をオーディブルという本の朗読サービスで聞いているのですが、最初に「自分の命を買い戻そうとする」という表現が出てきました。恐喝されてお金を差し出しているシーンではありません。でも今なら分かるよ!あがなうってことでしょ?
15すべて肉なる者のういごであって、主にささげられる者はみな、人でも獣でも、あなたに帰する。ただし、人のういごは必ずあがなわなければならない。また汚れた獣のういごも、あがなわなければならない。 16人のういごは生後一か月で、あがなわなければならない。そのあがない金はあなたの値積りにより、聖所のシケルにしたがって、銀五シケルでなければならない。一シケルは二十ゲラである。(民数記18章)
こういうのが聖書の文脈だって理解できるととてもうれしいです。
旧約聖書の方は、なんとなくどういう考え方がベースになっているのか理解し始めたのですが、新約聖書の部分、キリストがもはや神として理解されているような節があってそのへんがよくまだ飲み込めていません。
例えば、処女懐胎ですが、キリスト教の信者の方は文字通りに受け取っているのでしょうか。
文字通りに受け取ってないと、その後、磔にされて人間の罪を洗い流したというロジックにはなりませんよね。
アブラハムがやっとできた一粒種イサクを、本気で神様のために生贄にしようとした。これが人間界の事だとしたら、これより一段高い神の世界でも、めったに現れない地上に降りた神の息子イエスを、父である神が本気で生贄にしたということでしょう。
ということは、キリスト教の方々から見ると、イエス・キリストは「現人神」ということでよろしいのか?
旧約聖書の預言が成就された、今までの預言者とはひと味もふた味も違った人物。それがイエス・キリストだという考えはなんとなくわかりました。その預言の部分を読んだらまた理解できるかもしれませんね。