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アラサー派遣女の聖書読破なるか日記

とくにキリスト教信者ではないアラサー派遣OLです。たくさん読めたら誰かほめてくれ。

あけましておめでとうございます。 Day86:進捗

2017.1.6 86日目です。

遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

どなたかが見てくださっているということが、聖書を読む励みになった2016年でした。

2017年は通読達成を目標にがんばっていきたいです。

 

さっそく年末年始にさぼりまくって、せっかく縮めた予定を

遅らせた状態からの2017年スタートです。あらまあ。

 

 

旧約聖書新約聖書を同時進行で読んでいて、いくつか思ったことがあります。

 

旧約聖書世界(ユダヤ教?)と新約聖書世界の対比は、仏教でいうところの原始仏教大乗仏教のように感じました。

私の知っている範囲では、原始仏教では「戒」「律」というルールがあり、それを破ると処罰がありました。そしてそのルールを守るのはなぜかというと「自分が」救われるためでした。

大乗仏教は、その厳しい教えやルールの複雑化により一般人の手の届きにくいものになった仏教を、知識の多寡にかかわらず広げ、自分の功徳が人の為にもなるという考えをもった一派です。

きちんと勉強したわけではないですが、そう認識しています。

こうやってくらべてみると、西洋の宗教と東洋の宗教の流れは似通っているように感じました。

 

新約聖書の「律法学者」も悪い人じゃない

旧約聖書を読んでいると、神さまが直接モーセなど預言者に、

これこれこうせよ。とルールを明言しています。

神さまから直接人間に向けてルールを発表されているのなら、

そりゃ少し無理したって守りますよね。

新約聖書では、律法学者はルールを守るあまりに形骸化しているというような

批判をされているように読めますが、

むしろ、人間が理不尽だと思おうと、意味を知らなかろうとやらなければいけないこと。

それが律法だと、旧約聖書を読んでいると感じます。

 

 

だれに威張ることも無く、聖職者の皆さんは、世界平和、全世界の人間のひとりひとりの幸せを、毎日祈ってくれています。

私は宗教に興味を持つまでそれを認識したこともありませんでした。

 通勤電車に乗っているだけで、車窓から多くの寺院仏閣、教会を見ることができます。

日本だけでも、コンビニよりも沢山教会やお寺、神社があるかもしれない。

世界中になるとものすごい数になるでしょう。

国境を超えて世界中の聖職者の方々が、世界のみんなに(そのなかにはほんのちょっと私にも)よりよくあれとお祈りしてくれていると思うと、

 そのおかげで死なないで済んでるなとか、結構本気で思ったりします。

 

ことしもよろしくお願いいたします。

 

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