Day163 「キリスト教は信じうるか」読了
2017.3.24 163日目です。
達成表よく見たら、詩篇の半分を読んでいました。
全体的な達成率も44%で、半分に近づきつつあります。
がんばるぞ!
信仰のない私において、神をどう考えたらよいのか、とても腑に落ちる内容でした。
難しいことを言っているようですが、身近な事象から噛み砕いて説明してくれるので、ゆっくり読めば内容の理解は私にもできました。
自分の中で、もしも神様というものが居るなら、それは私が見ようとしていないだけだ。となんとなく思っていました。
最初は小学生の時に幽霊の話になったのがきっかけです。
きっと幽霊は「姿を見せる」のではなくて、「普段からその辺にいるのだけど、私が見ようとしないから見えない」のだろうと、突然ひらめいたのです。
ノートを取るのに集中していると、同じ机の上にある消しゴムにまったく気づかない(みえないと感じている)のと同じように、集中力のピントが合っていないから幽霊は普段見えない。
この考えはそれ以降ずっと私の中にあって、自分の把握している現実とは「自分のフィルターが濾し取っている虚構」だという感覚がありました。
そこで神様の話に戻るのですが、「神様は語りかけている」とキリスト者の方々はおっしゃいます。多分それは本当で、でも私にそれをキャッチする姿勢がないから声が一方通行になって私に届かない。私の把握している現実はその声をキャッチしない。
電波塔が常にラジオの電波を発信していても、ラジオを持っていないと音声は聞けません。ラジオを持っていても、周波数が合っていないとやはり音声は聞けません。きっとそういうことなんだろうと思いました。
目に見えず触れないものでも存在はしますね。電波だって空気だってそうなんだから。だから目に見えないから、声が聞こえたことがないから、幽霊や神様が居ないということにはならないと思います。
そういった考えが私の中で不定形のものとして渦巻いていて、そのうえでこの本を読んだことで、キリスト教への理解が少し進んだように思いました。
仏教の「空」というのは、物事すべてを司る何か、今はまだ解明されていない全てを解明する鍵「X」だと聞いたことがあります。だとすると、「空」はキリスト教の神にかなり近いのではないか。と思いました。
文中の「ロゴスとは無である」という説明も非常に私にとってわかりやすいものでした。ちょっと前に書いた、天地創造の無は「全てのものが存在する無」だという私の感覚と通じるように思いました。
この考え方はキリスト教信者のスタンダートかどうかはわかりません。でも、キリスト教文化の外で約30年生きてきた私にとって、私の理解の範囲内で神を説明してくれる書物でした。