出エジプト記10-15
のろのろペースですが、英語で聖書を読むことに少しずつ復帰しています。
今は、エジプトからやっと出られてモーセが海を割ったあたりまで。
川が血に染まったり、イナゴが大量発生したりと、
神様のわざによってエジプトに災難が巻き起こるのですが、
毎回文章の型が同じ。ずっと繰り返しで、うっかりしてると果たして読み進めているのか、もしかして前回読んだところもう一回読んでないか? と不安になるくらい同じ。
これは、筆者が省略を知らないのではなくて、わざとこうしているのではないか? と思ったのですがどうでしょうか。
仮説1:神様のわざを省略すると失礼に当たると思ったから
一つ一つ、事実を省略せずに伝えるのが誠実さだ! というある意味愚直なていねいさの表れなのかしら?
仮説2:歌の「サビ」のように、物語にリフレインがある形式
4行詩とか、韻を踏んだりしますよね。歌も繰り返しの部分があったり。
そういう感じで、同じフレーズが続くことでリズム感というか、語りの妙・見せ場みたいなものがそこにあるのかしら?
仮説3:文字に書かれていない何かを伝えようとしている
これは、オカルトっぽい考え方かもしれません。
繰り返している回数とか、同じような状況が続いていることを同じ言葉で伝え続けることとか、そこになにか「秘密」があるのではないか?
理解している人や、信仰のある人には伝わるようになっているのではないか?
忍者屋敷の隠し扉みたいな感じかな。
私みたいな、ただ読んでいる人には見つけられない扉が、この繰り返しの文章に(もしかして聖書のあらゆる所に?)仕込まれているのではないかしら?
色々なことを考えながら、無理のないペースで読み進めていこうと思います。
余談 エレファントカシマシ「あなたへ」
全然読めてない上に、余談。
エレカシだーいすきなのです。
歌詞はこちら
http://j-lyric.net/artist/a001cc9/l02f1b5.html
「嘘つき」って言うのはおかしいにしても、
もう、人類の愛を超えて、神への愛を歌っているような曲です。
運命の星にいつか導かれて
わたしの生命はすべてあなたに繋がってゆくのです
出エジプト記1-6
血の花婿って何でしょう?
息子を割礼する→皮をモーセの両足につける→「あなたは私にとっての血の花婿です!」→主がモーセに手をかけるのをやめる
何かのおまじない?
私は、ヤコブが天使と格闘した話を思い出します。
あれは、不義理をした兄に会いに行く前夜の出来事でした。
今回の血の花婿事件も、モーセが使命を負ってエジプトに向かう途中です。
きっと二人はこの時、神様の命令だとしても本当は気が進まなかった。
すごくやりたくなかったのだと思います。
ヤコブは一晩中そのプレッシャーと格闘することで克服した。
モーセはプレッシャーに潰されそうになった時、奥さんの行動に助けられて、エジプトにいく決意が固まった。
ということなのではないでしょうか。
うだうだとエジプトに行きたがらないモーセに対して、神様が怒りをあらわにするシーンがあります。
私は、神様が怒ることは別に不思議だと思いません。
私が馴染んでいる仏教では、不動明王という仏様がいます。
睨みを利かせて牙を剝き、威嚇の表情をした鬼のような仏様です。
なぜ不動明王が怒った顔をしているのか、
それは、優しく言っても理解できない私たちを叱ってまで、正しい道に導きたいという気持の表れです。
単純に同化して考えては行けないとは思いますが、
本当に大切な人のためなら、真剣に怒れるのが真心だと思います。
創世記43-47
今週のお題「ゲン担ぎ」
らしいですが、
夢ときは、現代ではゲン担ぎの部分があるでしょうね。
夢の意味の良い部分を信じて頑張る。
モチベーションが上がれば、どんな方法だっていいと思います。
ゲン担ぎも結構侮れないパワーがあると思っています。
最近、怠けていた分ちょっと駆け足で進んでいます。
去年は一年以上かかったので、2週目の今年は一年で読み切るのが目標!
ヨセフとベニヤミン、そして兄弟の再会のシーン。
ヨセフは、自分をエジブトにやったのを後悔しないでほしい。これは神様の計らいだ。という意味の事を言います。
日本だと「禍福は糾える縄の如し」って言うと思いますが、
この場合、その縄をなっているのは神様で、それに正しく捕まっていれば、苦しい時があってもいつかハッピーエンドが待っている。という感じでしょうか。