Day154:八木誠一氏に深く感銘を受ける
2017.3.15 154日めです。
個人的な感想としては、聖書の舞台になった場所の景観を実際に訪れた著書が詳しく記述しているので情景が浮かびやすい。
書いているうちにキリスト教信者としての血が騒ぐのか、熱くなってくるのだがそうなると信心のない私はついていけなくなってしまう。
ユダヤ教、ヘブル思想では言葉すなわち魂であり肉であるなど、ユダヤ教の基本的な考え方を説明してくれた箇所も分かりやすく非常に勉強になりました。
次に、一緒に借りてきた(私は聖書の勉強において、無料のものや図書館のものを利用しているのでまだお金をかけて聖書を学んではいません。世の中すごい。)
これが、すごい。
私がすごい。なんて言うのも憚られるお方なんでしょうが、タイトルに惹かれて何気なく借りだしたのですが、大変に面白い内容です。
彼の父は内村鑑三のお弟子さんということで、日本の戦後クリスチャンは内村鑑三氏の影響が色濃いのでしょうか。
クリスチャンホームに生まれ聖書について勉学を勧めていく中での懊悩について書かれているのですが、
まず、出だしがすごい。
悪いと知って行う悪だけが悪なのではない。善かれと願う真面目で熱心な努力が思わぬ悪を生み出すことも実にしばしばある。(p12)
これね。これ。私の中にある命題でした。
「僕は今まで木は木だと思っていた。なんという間違いだったろう」(p48)
真面目にキリスト教に向き合い悩む中で、禅の思想にそのヒントを見つけ、こういった事態になるわけですが、これは、私も、そう、思ってたんだよー!と思わず叫び出しそうになりました。
これについての詳しい説明は本を読んでいただくのが一番だと思うのですが、
②自分の中で金閣寺への期待がふくらむ
③ついに本物を見たときに、本物が自分のなかの金閣寺よりも美しくなくてがっかり
この感じ?
これをイエス・キリストにも当てはめて、キリストその人よりも言葉が先にたって、その人自身をみていない状態は問題なんじゃないかとそういうふうにいってると理解しました。
書き文字をきれいにしようと思って、そういった本を購入したことがあるんですが、まず驚いたのが、お手本の「あ」と自分の頭のなかにあった「あ」の形がかけ離れていることだったんですよ。もう全体のバランスがまったく思っていたのと違って、10回書いてやっとお手本ににせることが出来たような体たらくでした。自分の中の「あ」の形は、30年生きてきて標準からだんだんずれていたんですね。毎日「あ」を見ているのに思い込みによってそれに気が付かなかった。
人間はそうやって思い込みにまみれて生きてるんですよね。
私にとって読み応えのある内容なので、まだ60ページほどしか進んでいませんが、既にとても影響を受けています。
八木氏は今も教鞭をとっておられるようですが、
横浜遠いなー。授業料より交通費のほうが高くなってしまう。
ぜひ直接お話聞いてみたいです。
まずは頑張って「キリスト教は信じうるか」を読み切ります。
そんなことを考えて今日の聖書を読んでいたら。
16盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿を指して誓うなら、そのままで良いが、神殿の黄金を指して誓うなら、果たす責任がある』と。 17愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。 18また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。 19盲目な人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。 20祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。 21神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。 22また、天をさして誓う者は、神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。(マタイによる福音書 23章)
既に、見ているようで見えていない「盲目の人」がそれによってこんがらがって全然違う方向にルールを決めたりとかしてたんですね。
また自分の考えとマッチした内容でドキッとしました。
私なんかも見ててくださる神様なら、きちんと信心されてる方は大変な加護を受けているんでしょうね。