Day169 イエスの立ち位置が分からない
2017.3.30 169日目です。
「ダ・ヴィンチ・コード」をオーディブルという本の朗読サービスで聞いているのですが、最初に「自分の命を買い戻そうとする」という表現が出てきました。恐喝されてお金を差し出しているシーンではありません。でも今なら分かるよ!あがなうってことでしょ?
15すべて肉なる者のういごであって、主にささげられる者はみな、人でも獣でも、あなたに帰する。ただし、人のういごは必ずあがなわなければならない。また汚れた獣のういごも、あがなわなければならない。 16人のういごは生後一か月で、あがなわなければならない。そのあがない金はあなたの値積りにより、聖所のシケルにしたがって、銀五シケルでなければならない。一シケルは二十ゲラである。(民数記18章)
こういうのが聖書の文脈だって理解できるととてもうれしいです。
旧約聖書の方は、なんとなくどういう考え方がベースになっているのか理解し始めたのですが、新約聖書の部分、キリストがもはや神として理解されているような節があってそのへんがよくまだ飲み込めていません。
例えば、処女懐胎ですが、キリスト教の信者の方は文字通りに受け取っているのでしょうか。
文字通りに受け取ってないと、その後、磔にされて人間の罪を洗い流したというロジックにはなりませんよね。
アブラハムがやっとできた一粒種イサクを、本気で神様のために生贄にしようとした。これが人間界の事だとしたら、これより一段高い神の世界でも、めったに現れない地上に降りた神の息子イエスを、父である神が本気で生贄にしたということでしょう。
ということは、キリスト教の方々から見ると、イエス・キリストは「現人神」ということでよろしいのか?
旧約聖書の預言が成就された、今までの預言者とはひと味もふた味も違った人物。それがイエス・キリストだという考えはなんとなくわかりました。その預言の部分を読んだらまた理解できるかもしれませんね。