2週目day0 Bible Study Tools .com で手こずる
意気揚々と二週目に突入するべく、去年から用意しておいたプランの準備に取り掛かりました。
これどす。
無料の会員登録をしてログイン。希望するReading Planの上部にある「Start Reading」をクリック。
すぐに創世記1-3の本文が開かれましたが、「Finished Reading」ボタンがどこにも見つからない。
しかも、「あなたはまだリーディングプランを選択していません。こちらからプランを選んでみましょう!」的な警告文まで出る始末。
ログアウト、メールチェック、再ログイン、再度プラン選択、別のブラウザで開く……。
全部チャレンジしてみましたがことごとく駄目でした。プランが選択できない。
結果として、一旦携帯のアプリをダウンロードしてログインしてみたら
携帯のアプリからは「Finished Reading」ボタンが表示されることがわかりました。
このボタンを押せれば、自動的に自分の読書プランとしてアカウントに登録されるようです。
携帯からボタンを押した後、PCブラウザに戻ってみたら、今度はこちらでもボタンが押せるようになっていました。
40分くらい右往左往してしまった。
日本の何処かで、私と同じ謎にハマっている方がおられましたら、一度携帯アプリから入ってみて下さい。
↑右側にプランの概要が出たら成功です。
↑この「Finish Reading」ボタンを押せないと、終わらないどころか始まりません。
はー。読書はまた明日だ。
あけましておめでとうございます
あけましておめでとうございます。
今年も聖書を読んでいきます。よろしくお願いいたします。
念願のブログ名変更
ブログタイトルを
「アラサー派遣女の聖書読破なるか日記」
から
「アラサー派遣女は聖書読破したぞ日記」
に変更しました。
通読できて、はしゃいでますよ!
だってこれ自分を褒めてもいいやつですよね。私頑張ったよ。
来年は
「アラサー正社員は2回聖書読破したぞ日記」
に成長させたいです。
出世魚のように、タイトルがどんどん成長すればいいな。
来年も通読がんばります。
今年の更新はこれが最後になると思います。
本当に、ここを見てくださっていた皆さんが居たからがんばれました。ありがとうございました。
よいお年をお迎えくださいませ。
(今週のお題「2018年の抱負」に参加中)
聖書通読しました!
ゼカリヤ書と詩篇を読み終わりました。
ゼカリヤ書の最後の方、ロバの下りとか。あれはキリストを指していると考えてよいのでしょうか。これで、キリストが参道で行った不思議な行動についても「予言されていた」という意味で辻褄が合いました。私の中で。
そして、ついに、とうとう
聖書通読達成!!
100%が並んでいる。よい景色です。
年内で達成できてホッとしています。
私はクリスチャンではないのに、はじめての聖書で挫折することなく通読までこぎつけることができました。
ひとえに、このブログをあたたかく見守って下さった方々のおかげです。本当にありがとうございました。
また、よい通読プランとの出会いも成功の決めてだったように思います。同じ内容のものを同じ日に読むことで理解が進み、飽きづらかったように思います。
また、毎日読んだ部分をチェックするシートを作成したのも良かったです。読んだところを塗りつぶすと、実感として「やったぞ」というポジティブな気持ちになり続けやすかったです。全体の何%読んだかが分かるようにしたことで、「モーセ五書3割行った」「全体の半分読んだ」という、小さな達成感を積み上げることができました。
聖書アプリ「YouVersion」との出会いも大きかったです。出先のスキマ時間に聖書を読む癖がつき、読むことのハードルが下がりました。これも、読んだ章をチェックしていく方式なので、チェックマークを入れていく快感が味わえていい感じ。
去年の10月からで、1年2ヶ月での読破となりました。
もう来年の話。個人的に「七十人訳聖書」が気になっているのですが。珍しいもの好きなので。でも一部しか翻訳されていないのですよね。
来年はこのプランで読みつつ
読んだ部分の日本語解説を調べていきたいと思います。一回目はネタバレが嫌だったので内容についてあまり調べませんでした。
他にもやりたいことは、
・歴代誌の家系図を完成させる(ちょっとやって挫折中)
・英語(キングジェームズが気になっている)で聖書を読みたい
・フランス語で聖書を読みたい
というかんじ。これは生きているうちに頑張れればいいかな……。
ヨブ記 おわり
ヨブ記読み終わりました。ちょっと衝撃的でした。
最初の中でも取り上げられる事の多い箇所だと思います。わたしも読む前から大体のあらすじを知っていました。でも、実際読んでみて、色々な方面からびっくりしました。
まず、神様とヨブの関係。神様のことを「父」と形容することがあると思います。まさに、ヨブ記の神はお父さんのようでした。
ヨブは成績優秀な子供だけど病弱だったり、親に愛されてる実感のない子供。親の言いつけ通りに勉強も頑張ってるし、習い事でも賞を取ってるのに、なお愛されてる実感がない。
そこで父親が言うことが「じゃあ、この家を建てたのは誰だ?誰のおかげで飯が食えると思ってるのか?学費や習い事のお金を工面してるのは誰だ。お前は自分の金で生活してると思ってるのか?」
そういう風に読めました。
じゃあ何でそんなことを言われてるかというと、やっぱりヨブは父に愛されてないのかな。というのがわたしの感想です。愛してたら、実験台に使おうとも思わないはずだし。辛い思いをさせてなお自分についてくるか試すなんて、愛する子供にはそんなことしないんじゃないかな。
仏教の教えはまるで数学のようですが、聖書は人と人とのあり方のようにもみえます。神様を父と呼ぶのは、信仰している人が、神に人格を見ているからではないでしょうか。なんとなく気にくわないということだって、神様にはあり得るのかもしれません。
また、ヨブに強い共感を得る人もいると思います。自分は誠実にやってるつもりでも、急に事故にあって怪我をしたり、不可抗力でうまくいかなかったり。そんな時、神様はちゃんと見ていて下さるのか思わず不安になることも、人間であれば自然な気持ちのような気がします。
ヨブの友達にも感じることがあります。私は、人の言葉を鵜呑みにして自慢げに語ったとき、それが身についていないのを見破られてドキッとしたことがあります。正しいことをただ言うだけが、正しいとも限らないのでしょう。身に染みてない人の言葉はあまりにも空虚です。
センセーショナルというか、どう生きるのか。信仰のある方であれば、信仰していくとは?という話になるかと思います。突きつけてくる話だと思いました。